22 2017

ユキハルさんと栞

ほんとうに、ユキハルさんの一番の宝物は、ただの黄色い栞の紐だったのです。絵本の中のトラのように、少し橙がかった黄色でした。僕がいつもの喫茶店でユキハルさんを見かける時、たいていユキハルさんはその黄色の栞を愛でていました。人さし指と親指で、栞の根元から先までをするするとなぞりそれを幾度も幾度も繰り返しています。栞は全体が細かく毛羽立っていて、先の方はクジラのしっぽのように二手に割れてしまっていました。

栞を可愛がっているユキハルさんは、どこかからかいたくなる風情があるのかもしれません。僕は、そんなにそれがすきなら、本からはずしてあげようか、と言ったことがあります。するとユキハルさんは、首がちぎれそうなくらいに被りを振りました。ぶんぶんぶんぶん。 ぶんぶんぶんぶん。とんでもない、と言う顔で、何も言わず目をかっと見開いてこちらをじっと見るので、僕は吹き出して、冗談だよと付け足しました。ユキハルさんは真面目な顔でうん、とうなずくのでした。

僕は、ユキハルさんを見ていると、子どもの頃からの悪い癖が出てきそうになりました。その癖は、人の宝物を奪うことです。
宝物を奪われた人々の様子は、実に興味深いのです。僕は、すがりつくような目で宝物を知らないかと尋ねられる瞬間に、しらを切るのが最高にすきでした。

僕はある日、ユキハルさんが席を立った時にその本を懐に隠しました。
喫茶店の店主は、咎めるように僕を一瞥しました。僕はにっこり笑って、いたずらだよと答えました。店主は肩をすくめるだけで、何も言い返しはしませんでした。
ユキハルさんが、席に戻ってきました。
その途端、彼は電気が走ったかのように飛び上がりました。口をパクパクさせ、それから喫茶店の中をぐるぐる回って探し回り始めました。机の下椅子の下じゅうたんの下窓を開けて向こうの道ゴミ箱の中花瓶の中。僕は笑いをこらえてそれを眺めていましたが、ユキハルさんが花瓶を落としそうになった時、店主が私をにらみつけたのでそろそろ終わりにすることにしました。
ほら、あったぞ、そう言って何気なく本を取り出し、ユキハルさんに渡しました。
すると、ユキハルさんは、目にうっすら涙を浮かべながら満面の笑みをしたのでした。

その日から、ユキハルさんは、僕が喫茶店へ来ると、駆け寄ってきて栞を見せてくれるようになりました。ユキハルさんは、あの時僕がみつけただけで、隠したとは思っていないのでしょうか。僕はなんとなく、ユキハルさんに対して笑うのが、日に日にへたになっていく気がしました。

僕は、ユキハルさんがその本の栞が好きなのは、どうせ誰かの形見だろうからだと思っていました。けれどもそう店主に言うと、店主は被りを振りました。彼はただ、あの本についているあの栞、あの色が特別に好きなだけだよ。と言いました。
ユキハルさんのことは、僕の理解を超えていました。

僕は、それを聞いてからなんとなくユキハルさんを憎く感じるようになりました。そんな風に大事にしていたって、失くすに決まってる。と言ってやりたいと思いました。あのくじらのしっぽみたいな先割れだって、失くすに決まってる。
ユキハルさんは、その日もやはり僕が喫茶店へ入ると、駆け寄ってきて栞を僕の目の前でぴらぴらさせました。僕はなんだか、かんに触って、栞をぎゅっとつかみました。そのまま引きちぎってやるつもりで。ユキハルさんは、一瞬おののいたようでしたが、薄く笑うと、指をゆるめるジェスチャーをしました。僕はなぜだか従って、栞をゆっくりなでました。なんだか僕の中の何かが柔らかく崩れてゆくのを感じました。ぽろぽろと雪のようにこぼれてゆきました。

その日から、僕はユキハルさんの栞を撫でさせてもらうようになりました。
ユキハルさんも栞も、ずっとずっといつまでも変わらずにあるもののひとつなんじゃないかと、ふとそんな気がして、なんだか可笑しくなりました。
17 2017

触覚記

ニンゲンでないものになれた子の頭からは桃色の触覚がはえて、虫の気持ちがわかるようになる。青天使はそう言ったのだった。

3ヶ月間部屋に閉じ込められていたフユは、
深夜、こっそり布団を抜け出し、ベランダへ出た。母親が眠っている間だけは、ベランダへ出れた。外の空気を吸うのは久しぶりで、フユは冷たい外気に少しむせた。
ベランダから、棟の屋上に青いものがみえた。
人だった。しかしそれは、絵本に出てきた天使によく似た姿をしていた。翼も皮膚の色も青色だけれども。
天使は何やら呟いていた。おまじないをとなえるように。フユに聞き取れたのは、少しだけだった。
ニンゲンでないものになれた子の頭からは桃色触覚がはえて、虫の気持ちがわかるようになる。
天使の青い顔が、フユを見た気がした。

フユはその晩夢を見た。
鍋いっぱいに白い蛾を煮詰めている。これを食べれば、触覚がはえると信じていた。しかし青天使は首を振った。そして、もっとこうしなくては、というような事を言ったのだが、目覚めた時フユは、それがなんであったか忘れてしまった。
けれども、朝、母親が鍵を閉めて出て行った途端思い出した。
白い蛾を煮詰めたものは、母親に食べさせるように、ということを。

つづく
31 2017

いまむらくんはうちゅうじん

いまむらくんは、みんなとちがいます。
いまむらくんは、みんなと手のかずもかおの形もちがいます。からだの色もちがいます。
とおいほしから来たんだそうです。

はじめていまむらくんが教室に来た日、いまむらくんは、黒ばんの前で先生にじこしょうかいするよう、いわれました。
でもいまむらくんには、口のような小さな穴がふたつあるだけで、ことばがはなせないみたいでした。
口のような小さな穴から、ふすふすと音がしただけで、そのときぼくたちはいまむらくんのことをぼくたちとはちがうとつよく感じたのだと思います。
そのあと先生が、かれはいまむらゆきひろくんといいますといいました。それから、とおくからきたのだからやさしくしてあげてくださいともいいました。

でも山本くんや田なべくんやささきくんは、いまむらくんにやさしくしませんでした。ほかの男子や女子もやさしくなかったと思います。ぼくも、あまりやさしくなかったです。
山本くんが、いまむらくんのからだをつよくつねっても、いまむらくんはなにもいわないので、山本くんはもっとつよくつねりました。
田なべくんがけしごむをなげても、いまむらくんはだまっているので、ささきくんがチョークのこなをいまむらくんのあたまにかけました。
ぼくは、なんとなくだまってそれをみていました。いまむらくんかわいそうとおもったけれど、なにもいいませんでした。

お昼から、雨がふった日のことです。雨は、ほうかごまでふりつづきました。
かさがなかったぼくは、くつばこでぼんやり雨がやむのを待っていました。
きがつくと、となりにいまむらくんがいて、ぼくにかさをさしだしていました。
タコみたいな、ほそくてながい手でした。
ぼくはなんだかどうしたらいいかわからずに、いまむらくんが、そばにいるのがこわいきがして、あっちいけ、といいました。
でも、あたまの中では、いまむらくんのからだがきれいなもも色で、すこし光っているようにきれいで、びっくりしていました。
いまむらくんは、ぼくのあしもとにかさをおきました。
そして雨の中かえっていきました。

ぼくは、だれも見ていないかかくにんしてから、いまむらくんがおいていったかさをひらきました。
それはすてきなかさでした。
かさのうちがわがぜんぶ、ピンク色のうちゅうでした。雨雲におおわれた空を、ぼくはわすれました。
ピンク色のうちゅうには、ぼくのしらない星がたくさんあって、しらない星にはしらないいきものやまちがあるんだとおもって、
ぼくはそんな星のようすをたくさんそうぞうしながら帰りました。
しらない星の空は、たとえばミントアイスみたいなみどりいろで、学校もなくて、いちめんにじいろのさばくで
いまむらくんもぼくのようにしゃべれるのかもしれません。
ぼくはうちにかえって、そんな絵をかきました。そして、絵のすみに、かさありがとういまむらくん、とかきました。

次の日、ぼくはいまむらくんのつくえにおれいの絵をいれることができませんでした。
その次の日もできませんでした。その次の日も。ずっとずっと、できませんでした。
山もとくんやたなべくんやささきくんが見ているきがしたからです。
そのあいだも、いまむらくんはいろんないやなことをされていました。ぼくは、何度もいまむらくんの机のそばにいって、絵をいれようとしました。
でもどうしても、いれられませんでした。

ある日、いまむらくんは学校にきませんでした。
次の日もきませんでした。
先生がいいました。いまむらくんは、おひっこししました。
するとだれかひやかすようにいいました。こきょうの星がこいしいよう、えーん。
みんな、どっとわらいました。
先生は、はっときびしい顔になっていいました。
いまむらくんのうまれた星はもうありません。
教室中が、しんとなりました。

その日の夜、ぼくはいまむらくんのゆめをみました。
ゆめのなかで、ぼくはいまむらくんに、しらない星の絵を、わたしていました。
いまむらくんは、こくんとうなずきました。そして、ぼくのひたいに手をあてました。
ぼくのひたいになにかがはいっていくようなきがしました。
ぼくはそれが、いいものなのかわるいものなのかわかりませんでした。
ぼくは、いまむらくんがすこしこわかったのです。
でも、いまむらくんはあいかわらずきれいな桃色で、それはなんだかやさしいきもちになれるような色でした。

いまむらくんには、あれからもう会っていません。
それでもなぜか、いまむらくんはぼくのことをわすれていないようなきがするのは、ぼくのきのせいでしょうか。
それとも、ぼくがずっと、いまむらくんのことをわすれられないからなのでしょうか。
しらない星の絵は、いつのまにかなくしてしまいました。

25 2017

魚類館

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真夏の強すぎる光を避けて
湖の中へと続く螺旋階段を降りてゆく。
地上でなら、何日間ものあいだ
湖の中ならば、数時間ほどのこと。

目下に現れるのは、青い半透明のドーム。
ドームの中には、魚たちが泳いでいるのが見える。
魚類館だ。

真夏でも、魚類館の中へは太陽の光は届かない。
水槽越しの青い光が、天井に波のように揺らめくばかり。
古代魚たちは、水音一つさせず優雅にターンをする。

水槽にいるのは、
もういなくなってしまったとされている魚たち。貝や水藻たち。
湖の底では、水の流れも時の流れもとても遅い。
だから彼らも生きていられるんだという。

青い大水槽の側のシルエットは、館長の青年だろう。
側へ歩いて行くと、こちらを振り向いた。
手を振ってくる。指の間にある水かきが、水色に透けている。
私も手を振り返す。私の水かきも水色に透ける。

半分だけ魚の人間は、
もうずいぶん前に皆いなくなってしまったから
私と館長はこうして魚類館にいられる。
もっと魚に近づいたら、私ももう地上へは戻れなくなる。館長のように。

館長は前よりもうるみを増して青くなったような目をして、話す。
「湖の底だって、いつまでも時が追いつかないわけでは、ないのです。
いつか時に追いつかれる時は、必ずきます。
けれどもそれまでは、ここはこんなに静かです。」

館長は、私に手を広げるようにしめすと
手のひらの中に小さな紙のようなものを握らせた。
手を広げると、それは青くて透き通った、薄いセロファンのチケットだった。
Gyoruikan、と印字してある。
「館長のあかしです。
僕はもうすぐ魚になってしまう。」
館長の指は、そっと私の水かきを撫でた。

それから私は、地上へ戻ることはなかった。
いつか、館長は立派な古代魚の姿になった。
大水槽を悠々と泳いで行った彼を、見失わないようにと目を凝らしたが
いつしかどの魚が館長か、わからなくなってしまった。
私はいつまでも、大水槽から目を離せずにいた。



…Henning Schmiedt 「Weite Wiese」